「同潤会大塚女子アパートメント」保存問題について考える
                        (「住宅建築」2002年9月号)


先日訪れた東京三田の「女性と仕事の未来館」は厚生労働省の肝煎りで作られ、明治以
来の女性の社会進出の歴史を豊富な資料で示しているが、そこに開催されていた「女性と
建築展」は戦後半世紀に亙る女性の建築界進出を語る素晴らしい展示であった。その一角
に同潤会「大塚女史アパートメントハウス」の模型が展示され、これが取り壊しの危機に
面していることを私は初めて知った。
 実はこのアパートは私の小学校時代の通学路にあって幼いころから親しんでいた。フゾ
ク小から占春園の橋を渡り、加納治五郎の像を仰ぎ、文理大の門を出て歩くとその右手、
現在は地下鉄茗荷谷駅の斜め向かいだが当時は市電の文理大前にこのアパートが建つ。そ
の角を曲り、ちょっとハイカラなアーチの構えの店の前を過ぎ、窪町から仲町へ上がる途
中の蛇屋のウィンドーのマムシを見つめ、消防署で赤い消防自動車を眺め、箸善の割り箸
づくりのオニイさんと話をし、金網屋の篩い作りを覗いて帰ったものだ。
 1930年の建設というからまだ出来てほんの数年だった訳だが、その時代に働く独身婦人
用のアパートを作るとは同潤会もずいぶん進んでいたものだ。だが小学生の私はそんな社
会的意義など知る由もなく、ただ時折しゃれた姿の女性の出入りを眺めただけで、ごく当
り前の建物と思っていた。街に馴染んだ茶褐色スクラッチタイルのこの風景は心に残る。

 同潤会と言えば、今日では代官山や神宮前の惜しまれつつ建替えられるアパート群が有
名だが、そもそもは関東大震災後の義援金をもとに住宅復興機関として設立された組織で
ある。当座は応急木造住宅の建設に力を尽くしたが、時を経ずにそれは充足し、恒久的な
住宅供給へ、更に不良住宅地区改良などの社会的事業にも手を染めて行った。
 地震は、確かに首都という大都市を襲ったために大きな被害をもたらしたが、ただ、そ
の範囲は1府2県程度に限られる。これが、国を挙げての戦争に巻き込まれた太平洋戦争
による被害とは全く異なるところである。しかも当時の日本は第一次大戦後の工業化への
発展期で経済的にも上向きの時期であったため、全国各地からの救援でまたたく間に当面
の応急復興は進んだ。
 そしてその後の同潤会の動きは注目に値する。都市の一般木造住宅へ、更に不燃の鉄筋
コンクリートアパートの建設へと歩を進めた。国の経済が商工業振興へ都市整備へと向か
い、中流サラリーマン層の発生を迎えた時代の流れに正に沿ったものと言ってよかろう
 アパート建設そのものが一つの社会的見地から発した事業であった。大震災の苦い経験
から住宅の不燃化は不可欠と考えられたに違いない。また都市をもっとコンパクトに造る
こと、あるいは今後の都市人口の増加に対応するためには集合化を、と考えたことであろ
う。そしてその範をヨーロッパ諸都市に求めた。具体的な表われとして同潤会は調査部を
置き、さかんに欧米の事例を研究してその成果を多くの出版物として刊行した。住宅地や
集合住宅事例の図集というフィジカルなもののみならず、制度や経済といった社会的なも
のにも亙っているのが特徴的である。また国内での調査も、家計調査や居住事情といった
住居をとりまく社会条件にも目を向け、また採光や室内気候などの衛生面にも及んでいる。
 この時期の事業の一つとして、独身職業婦人専用の「大塚女子アパートメント」が登場
したのである。考えてみれば大変な先見的企画である。中流家庭の女性が職業を持つこと
すら物珍しかった時代に、しかも単身で住まうことなどは特異な目で見られたに違いない。
その婦人たちが集まって済むアパートを作るとは画期的な事業であり、同潤会はよほど
さばけた進歩的な思想を持った人達の集まりだったのだろう。

 同潤会アパートの建設は、1920年代、30年代の日本の建築・都市建設における特
筆すべき歴史の一コマであり、何らかの形でこれを記念として保存し、歴史の証言として
人々の記憶にとどめるべきだと考えるのは当然であろう。都市というものは過去からの蓄
積の上に成り立つものであり、その風景の積み重ねが現代を形作る。建築博物館の構想が
取り沙汰されている今日ではとくにその感が強い。しかしどうも日本人はこういうことに
不得手で、歴史は現在を考えるための鏡だという観念に乏しい様だ。同潤会アパートが今
日の若者たちに親しまれ人気があるのもいわゆるレトロ趣味からであって、歴史感覚とは
隔たりがある。
 だが最近は漸くこれが広く浸透して力を得てきた。30年前には日本建築学会の理事会
の席で、東京駅の赤レンガの建築は戦災でオリジナルの姿から変ったとはいえ長く市民に
親しまれた風景だから残すべきだと発言したところ、国鉄から出ていた理事の方からそん
なことは言わないで欲しいと乞われたものだが、その当のJRが今日では、失われた3階
のドームも当初の形に復原しようと計画する時代になった。各地に保存・修復の事例は数
多い。
 尤も、同潤会アパートは、保存するといってもそのまま住居として利用するというより
は性格を変え記念的施設として残す形になろう。ところがヨーロッパ諸国では現在も生き
て使われ住まわれている。そこに大きな違いがある。同潤会とほぼ同時代に造られた例え
ばブルノ・タウト設計の有名なベルリンの馬蹄形ジードルンクなどは、何度かの補修の手
は加えられたのだろうし内部も新しくなっているのだろうが、今日なお立派に使われ美し
いたたずまいを見せている。
 一方、同潤会アパートは、有名な代官山にしても神宮前にしても、その劣化が甚だしい。
遠目には小奇麗なブティックやギャラリーとして若者の人気の的にはなっても、階段や
窓回りなど見るも気の毒なほど荒れている。なぜこうも異なるのだろうか。一つには気候
風土の影響もあろう。乾燥したヨーロッパと高温多湿の東アジアでは、建築とくに鉄筋コ
ンクリートの持ちが違うのだろうか。
だがそれよりも大きいのは、維持管理にかける人手の違いであろう。建物はその建設費の
何パーセントかの年々の維持費を必要とする。造ったが最後そのまま何時までも使えると
いう建築などはあり得ない。伝統的な木造家屋なども常に手入れをしてこそ命脈を保ちう
る。
 同潤会アパートの不幸は、建設の数年後には日本が日中戦争・太平洋戦争に突入し、国
を挙げて戦争への協力を強いられ、住まいや日常生活は全て捨ておかれるという事態にな
ったことである。「欲しがりません、勝つまでは」は私の少年の頃の最も広く浸透した標
語であった。そして同潤会は1941年には解散され戦時国策機関として住宅営団となり、
更に敗戦後の1946年にはGHQの命によってその営団も解散させられ、多くの同潤
会アパートは居住者に個別に払い下げられた。ただ、それまでに培われた各アパートのコ
ミュニティ組織によってしばらくは当面の管理は行われたであろうが、組織だった改修や
修繕は一切行われずに放置された。これでは老朽荒廃化するのも道理である。
 ここにただ一つだけ例外があった。それが「大塚女子アパートメント」である。戦後、
これは東京都の手に渡って公営住宅の一つとなった。しかも女性専用というまことに珍し
いケースである。但し、入居者層には大きな変化があった。建設当初はその事業の性格か
ら必然的に居住者の所得の基準が定められ(月収50円程度という)、女性教師・タイピ
スト・会社員といった中流婦人の住まいであったが、都営住宅という制度上、新たな入居
者は逆に所得の上限が定められ、その結果、さまざまな層の人々が混在して昔ながらの仲
良く住める雰囲気がなくなったと嘆く居住者もある。しかしそれでも都が管理したが為に、
他の払い下げアパートとは異なり建物はほぼ良好に維持されたのである。

 同潤会アパートには、どのアパートにも共同施設が豊かに設けられている。食堂・娯楽
室・共同浴室・共同洗濯場、さらには当時としては珍しい電話交換室を設置して交換嬢を
置き各戸への電話サービスをしたアパートもあった。まだ電話が全家庭にまでは普及して
なかったのである。
 そして初期の同潤会の宣伝文句に「女中なしで暮らせます」というのが象徴的である。
江戸期・明治期以来、農家は口減らしの意味もあって、男の子は丁稚や工員に、女の子は
やはり紡績女工もあったが多くは都会の家庭に行儀見習・花嫁修業を兼ねて女中奉公に出
すのが習わしであった。女中は衣食は給され、その給金は一般銀行員や官吏のそれのせい
ぜい1/20程度であり、従って都会の中流家庭では女中をもつことがごく普通に行われ
て、住宅のプランにもそれが反映されている。
 ところが第一次大戦以後の好況期、日本の工業の発展期に女子工員の給料も次第に上昇
し、それに連れて女中の給与も上がって来た。だからこそ、女中なしでも暮らせますとい
う共同施設が大きな魅力の一つとなったことも首肯できよう。
 女子アパートの場合はこれとはやや性格を異にするであろうが、単身住まいの女性のた
めの施設として、応接室・食堂・共同浴室・ミシン室・共同洗濯場・物干場などが設けら
れ、屋上のサンルーム・音楽室の前には瀟洒なパーゴラと植え込みのあるテラスもしつら
えられて、戦前・戦中までは良きコミュニティが形成されていたことが彼女らの談話記録
から推察される。それが崩れたのは戦後の都営住宅となってからで、これら共同施設は廃
止され、食堂のスペースは売店となり、居住者も多様化してコミュニティ性も希薄になっ
た。しかし建物そのものはほぼ健全に維持され、1958年の春日通拡幅に伴い当時大き
な話題となった建物移動(引き家)も居住者の住んだまま支障もなく行われた。私はこの
移動工事をつぶさに眺めたが、建設後30年のこの建築をそのまま保存活用しようという
当時の意志の表れと見ることができる。

 バブル経済に浮かれた時期には都も茗荷谷駅一帯の再開発を目論んで、この歴史と由緒
のある記念的建築も建替えの対象とされたが、バブルがはじけてその計画も縮小し、アパ
ートのある春日通の北側は計画地域から除外された。しかしなお老朽を理由に建替えは前
提とされ、82年以降は空家入居が停止されて居住者は次第に歯の抜けるように減少し、
建物の改修も行われずに放置されたため次第に荒れてきた。今年に入ってからは居住者を
順次他の都営住宅に移したり退去を求め、今や全戸空家になっている。
 だが、居住者に個別に払い下げられた他の同潤会アパートとは違い、公共の手によって
維持されてきたこのアパートが果たして老朽といえるのだろうか。確かに設備やサッシや
仕上げは更新する必要はあろうが、躯体はほぼ健全だとの調査報告もある。現今の法規に
照らして耐震補強などが必要かも知れないが、利用不適格ではない。昨年暮からは有志に
よって「旧同潤会大塚女子アパートメントを生かす会」が作られ、既に4回のシンポジウ
ムを開催して保存活用の方策が検討され、日本建築学会も加わって精力的に保存運動が展
開されている。
 この建物を保存しようとするのは、長年に亙り文京地区のこの街に定着した都市の風景
の記憶を保持しようとするのみでなく、昭和初期という時代の女性の自立と社会進出の確
かな記録として、またそれを支援した住宅供給事業の生きた歴史の証しとしての保存であ
ろう。それは最近各地に見られるファサード保存とは異なる。ファサード保存は開発利益
優先の単なる一手段であろう。むしろ建物全体を保存してこそ歴史の記憶としての意味が
ある。遺跡とは何も縄文・弥生の土器ばかりではない。近年は江戸期・明治期の遺物も文
化財と認められているが、大正・昭和もそれこそ立派な文化財である。
 しかし、おそらく以前と同様なアパートとしての利用は困難であろう。70年前とは生
活のレベルやスタイルも異なっており、そのままの形で今日に機能するとは期待できない。
むしろ女性の社会進出の尊い記念としてアパートの一部をそのまま復原・保存・展示す
ると共に、展示ギャラリー、ワークスペース、あるいは宿泊機能を伴った集会施設として
都なり厚生労働省なりが活用すれば、それこそこの建物の歴史が生き、またこの保存活用
が歴史に残る現代の行為となるのではあるまいか。
 歴史とは、残された限られた資料、遺跡・遺物や文書・記録や伝聞などを基に、これら
を解釈し筋道立てて組立てる作業であるが、その基となる遺跡や遺物は何よりも貴重であ
る。その歴史があるからこそ今日の社会があり生活がある。70年の歳月をとに角維持さ
れて来た貴重な文化財を、今日の単なる開発利益の為に壊すとは以ての外、歴史の抹殺に
手を貸すに等しい行為であり、「文化人首長」の名が泣くであろうし、それこそその名は
歴史に留められるに違いない。1950年代の晴海アパートを壊した90年代の住宅都市
整備公団総裁よりも罪は大きい。女性と仕事の未来館を作った厚生労働省も黙ってはいら
れまい。
 歴史と文化を守るとの見地から、これが真に有効に保存・活用されんことを願うもので
ある。